橙が藍に変わっていく。
城内の廊下に淡い灯りに満ちていく中、待っていた扉から待ち人が出てきた。
「どうですか、先生」
早る鼓動を押さえ、信頼している老躯へ問う。
長年の苦労をその皺に湛えた男は深く息を吐いた。
「ったく、お前なぁ今の季節考えりゃ廊下で待ってるってどんな馬鹿だ」
「・・・」
「いつまでも若者気取りたぁ足元掬われっぞ。
プロとして体調管理もままならねぇ事してんじゃねぇ」
「・・・すみません」
返された小さな呟き。
いつもなら返せているだろう言葉に、老医師は頭を乱暴に掻いた。
「はぁ・・・場所変えっぞ」
ーーSnow meltーー
レイヴンが目を覚まして一週間が経った。
経過は良好で、1日の大半を起きて過ごすことができるまでになっていた。
身を切る凍てつく空気の中、白い息が横切る城下の石畳の道を暗紫の髪が揺れる。
そして、目的の扉をその手が押し開けた。
「邪魔するぜ」
部屋の主人の許可を待たず、現れたのは漆黒の長い髪を持つ青年。
大胆不敵、それを体現した青年だった。
ギルド凛々の明星、ユーリ・ローウェル。
彼はベッドに起き上がっていた怪我人にいつものニヒルな笑みを向けた。
「よ。元気そうだな、おっさん」
「君は・・・」
「は?」
君?なんだそれ?
空耳?それとも幻聴か?
キョトンと固まるユーリに、レイヴンは慌てたように続けた。
「あ・・・す、すまない!
気を悪くしたなら謝るよ」
「いや、同じおっさんからそんな風に呼ばれるとちと、な」
調子を崩される返しに思わず頬を掻く。
そして気を取り直すように懐にから紙を差し出した。
「あー、そうだ。
あいつからしっかり休めって伝言と、コレは預かりものだ」
「預かりもの?」
『2,3日仕事で帝都を離れます。
このメモを託したのはギルド凛々の明星ユーリという不良青年です。
ぶっきらぼうで愛想がないし捻くれ者で喧嘩っ早いけど、
義理人情に厚い隠れ熱血漢でまぁまぁ信用できる人なので男同士の話し相手にどうぞ』
「・・・」
「なんとなく書かれてる内容は予想できたから、その生温い視線やめろ」
「す、すまない」
(「だからその返しもやめろっての」)
ガシガシと今度は頭を乱暴に掻く。
そして事情を知っているユーリは自身の名を名乗ると、レイヴンのベッドの横にある椅子へと腰を落ち着かせた。
「にしても・・・しぶとさに関しちゃ、やっぱおっさんには敵わねぇな」
「?」
「おっさんが土砂崩れに巻き込まれた現場、たまたま見れてな。
あんな所、エステル連れて二人とも生還って、やっぱ凄えなって思ったよ」
「・・・」
「ん?なんだよ?」
「いや、その・・・
御礼を言うべき所なんだろうが、あいにく記憶を失ってしまったからね」
困ったような表情のレイヴン。
かつてはないやり取りに、ユーリは自身の拳を見つめた。
「ショック療法で治るってんなら、ぶん殴ってやるんだけどよ」
「・・・それは遠慮したいな」
「まー、んなことしたら
に何言われるかわかんねぇしな。
下手したらオレが病院送りだ、いやつーか即三途の川・・・」
「
?」
レイヴンの疑問顔にユーリの方が呆けた。
おいおい、マジかよ。
前なら嫌味の応酬で凹ませてやったが・・・
「おっさんのことずーと看病してたヤツ、
のことだよ。
なんだ、知らねぇのか?」
「ああ、そうなのか。
彼女は言っていなかったからね」
困ったように笑う顔。
何気ない一言だったろう。
分かってるつもりだが・・・
(「・・・くそっ、コレ結構くんな・・・」)
無意識に詰めていた息を吐く。
なまじ一緒に旅をしていたからか、前なら当たり前だった。
その当たり前がないのが、こんなにも精神を抉る。
それを・・・
(「・・・あいつは、この一週間ずっとかよ・・・」)
他愛もない話は続く。
だが、続ければ続けるほど、微妙な間が空いていく。
こんな事、前までは・・・
(「なんなんだよ・・・苛々すんな・・・」)
「あの、聞いてもいいかな?」
「え?ああ、なんなりとどーぞ」
「彼女は君にとってどんな存在だい?」
「・・・」
心が硬直した。
それまで即答だったやりとりから一転、ユーリは言葉を探す。
喉が張り付く。
おいおい、これマジかよ。
事実な事が心が軋ませて、声が音にならない。
ゆっくりと息を吐く。
そして相応しい、いや、自分にはそれしか選べないワードをユーリは口に乗せた。
「仲間だ」
「・・・仲間?」
「あぁ、旅して死線を何度も何度も潜り抜けてきた。
腐れ縁の戦友って言ってもいいかもな」
「・・・そうか」
おい、何だよ『そうか』って。
他人事のような反応にユーリは苛立ちが募る。
『あんたもそうだったろうが』と拳が怒りに震える。
言ってやりたい。
胸ぐら掴んで、怒鳴り散らして、あの見覚えあってない顔を殴り飛ばしてやりたい。
けど・・・
『いい。誓ってよね』
あの旅の事を、それを目の前の男は忘れている。
『絶対に、何があっても記憶を取り戻そうと強要することは・・・』
何でだよ。
何でお前は・・・どうしてこんな時まで・・・
『それだけは・・・たとえユーリであっても許さないから』
いつもなら、言外に込められた言葉と共に無言で圧をかけてこちらの言葉を遮る奴が。
ただ静かに、静かすぎるほど、殺意とも思える空気でそう言い放った。
(「・・・お前、本当にそれで良いのかよ、
」)
対峙したその目に何も言えなかった。
異様過ぎるほど静かで。
浮かんで良いはずの悲しみは何処にもなくて。
「その・・・ユーリ、君」
「ゴフッ!」
気道に盛大に入った。
殺す気か。
「だ、大丈夫かい!?」
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ!
・・・さ、寒気がするから、ユーリで頼むわ」
「ははは、そうさせてもらうよ。
その、彼女はいつも一人で仕事を?」
「まぁな。
あいつはおっさんと同じ、ギルド天を射る矢で何でも屋みたいになってるのとフリーランスで情報屋してるからな」
「だが、女性が一人で世界中を飛び回るなんて危ないんじゃ・・・」
ぽかん、と呆気にとられた。
幻聴その2か?
(「女性・・・」)
「その心配はねぇよ。あいつ、オレよか腕立つし。
ってか、体質上、今あいつに勝てるのはそうはいねぇよ」
「体質?」
「詳しくは本人に聞いてくれ。
オレが教えられるのはおっさんのケガ、あとはエステルのもだけど治したのは
だってことだ」
「そう、だったのか・・・」
「知らなかったのか?」
そんな筈ないだろ。
だって、あいつはずっと付きっきりで看病していたはずだ。
普段からそこまで露わにしない感情を表に出すユーリに気付かず、
レイヴンはその時を思い出すようにゆっくりと話しだした。
「目が覚めたら、彼女が泣きそうに笑いながらこちらを見ていた。
あとは・・・医者が来て、記憶がないことが分かると、彼女がいろいろ教えてくれた」
「いろいろって、どんな?」
「私の名前、ギルドに所属している事、混成部隊の隊長だったこと、ケガを負った経緯、
今いる場所、街の外のこと、私自身の体のこと、2年前の戦いで魔導器が失われたこと」
レイヴンは指を折っていく。
きっと、己を形作られる情報は与えられていると思ってるだろう。
あえて避けられている話もある中で、果たしてそれは正しいのか・・・
「そこまで教えてもらったのに、私は思い出せないんだな」
「・・・」
レイヴンは呟くと遠くの景色を見やる。
その横顔に、ユーリはここに至るまでのやり取りを思い出していた。
『記憶喪失?』
『そう。恐らく頭部損傷によるものだって、医者が言ってたわ。
日常生活に関する記憶は失われていないから、傷が治って体力戻れば退院だって』
『・・・記憶は戻るのか?』
『さぁ?』
『さぁって、お前・・・』
なんでそんな投げやりに、と言いかけたユーリは口を噤んだ。
目の前の遠くを見る横顔は、投げやりとは程遠い、悲しげな痛みを押し殺している
がいた。
『・・・医者が言うには何とも言えないって。
すぐに戻るケースもあればずっと戻らなかったケースもある。
今回がそのどちらかかは分からないって』
『・・・』
窓枠に飛び乗った
は、自身の足元に視線を落とした。
『でも、ま・・・思い出さない方が、レイヴンの為かもね』
『本気で言ってるのか?』
突飛な言葉にユーリの言葉にも険が滲む。
しかしユーリの意図など介しない
は続ける。
異様なほど、淡々に。
『記憶を思い出すってことは良いことばかりじゃない。
10年前の人魔戦争で仲間を失ったこと、死人のような生活、ドンを失ったこと・・・
一緒に旅したことを忘れてしまうのは悲しいことだけど、わざわざ辛い記憶まで思い出すことになるなら、私は今のままで構わない』
『お前・・・本当にそれでいいのか、
?』
『どうして私に聞くの?それは私じゃなくてレイヴンが決めることよ』
あいつは困ったように笑っていた。
あの時の比ではなかった。
崩れた神殿から帝都に向かう中、まだ泣いただけましだった。
そうだ、本当なら泣いてもいいはずなのに。
初めてだった。
聞いててこっちが泣きそうになったのは。
そして、その後あの約束を突きつけられた。
「レイヴン」
「?」
「あんたは、思い出したいか?忘れた記憶を・・・」
あいつのあんな顔を見て、言わずにはいられなかった。
約束を破る事になっても。
「・・・まだ、分からない」
僅かな希望に縋りたいのは、どっちなんだろうな。
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2020.3.26