ーー人はそれをママと呼ぶーー
暑さ厳しい盛夏だが、日が沈み宵も更ければ過ごしやすい時間となる。
山あいにある呪術高専東京校も例外ではなく、時間帯も相まって虫の音も響く夏らしい夜。
と、そんな月明かりに照らされた薄暗い廊下を歩きながら、人工光の明るい部屋の前に人影が辿り着いた。
割り振られていた任務を終え、高専に戻った準一級呪術師・は残りの用事を済ませるべく目的の部屋のドアをノックした。
ーーコンコンッーー
「失礼しまーす」
「あ、さん。お疲れ様っス」
深夜故に抑えた声量に返された生気薄い声。
こんな時間にも関わらず補助監督室には人が残っており、呪霊の影響を受けているのでないかと疑ってしまうほどのやつれ顔の笑みで出迎えられる。
目の下のクマもなかなか酷いことで、はお疲れ状態のあかりに心配そうに尋ねた。
「新田さん、顔色悪いですよ。何徹してるんですか?」
「いや、新人が倒れたんで自分は代打っス」
「それは・・・大変ですね」
いつもの状態なら成り立つはずの会話のキャッチボールができないあたり、相当キてるようだ。
心配は心配だがひとまず、自分の用事を先に片付けようとは本来の探し人の居所を訊ねた。
「ところで、伊地知くん知りませんか?」
「伊地知さんは徹夜続き過ぎて、今仮眠室のはずっスね」
「他に使ってる人は居ます?」
「あー・・・いや、今はみんな出払っているはずなので」
「了解です、ありがとうございます」
あかりに礼を返すとは補助監督室を後にした。
再び静かになった補助監督室で黙々と一人雑務を片付けていれば、時間は刻々と流れていく。
そして、時計の日付が変わった頃だった。
ーーぽんっーー
「新田さん」
「んえあ!」
肩に手が置かれたことに驚いたあかりから妙な声が上がった。
どうやら部屋に入ってきたことにも気付いていなかったらしいあかりが振り返れば、そこにはコンビニの袋を手にしたがふわりと笑いかけていた。
「ちょっと休憩しませんか?軽食買ってきたんですけど少し買いすぎちゃって」
「あー・・・」
「おにぎり、麺類、お味噌汁、エナドリ、高級豆で淹れたコーヒー、デザート少々という感じですが」
「・・・いただくっス!」
豊富なラインナップに、唸るような力強い頷きが補助監督室に響いた。
そして、申し訳程度の打ち合わせスペースに軽食が広げられる。
用意されたお湯がインスタントのカップに注がれると空腹を刺激する味噌特有の香りが鼻をくすぐった。
コンビニの割り箸でくるくるとカップの中をかき混ぜ、ゆっくりと味噌汁を口にすれば、じんわりと身体に染み込む感覚に本音が溢れる。
「あ"ー、生き返るっス!」
「それは良かった」
アルコールではないことが申し訳ないくらいの言いっぷりにコーヒーを手にしたは苦笑しながら応じる。
自身はサンドイッチの一つをつまみながら、深夜のガランとした補助監督室を見渡す。
どの机も書類や報告書が山、もしくは乱雑状態。
とはいえそうなることも仕方がない事態ではある。
事の起こりは数日前に遡る。
姉妹校交流会が行われていた最中、高専関係者以外の部外者、よりによって呪霊と呪詛師を揃って高専結界内への侵入を許してしまった。
のみならず待機術師は多数の死傷者、生徒の負傷、回収呪物の強奪の失態が起きてしまった。
高専設立以来の事件では間違いなく上位に分類されるだろう今回の襲撃事件。
当然、術師と補助監督にはすぐさま主犯・実行犯の特定及び捕縛、相手の目的の調査などなどが上層部から通達が下され、結果として現場では通常の任務に加えてとんでもない仕事量となってしまった。
かくいうも、事件直後に呼び出しを受け、硝子の補佐をしつつそのまま任務に奔走することとなった。
自宅に戻ったのは呪具の予備を取りに戻っただけでここ数日は帰れていない。
つまり、他の術師や補助監督も似たり寄ったりな状況ということだ。
「ここしばらく、補助監督も忙殺ですよね」
「まぁ、仕方ないっスよ。術師に比べたらあたし達ができるところなんて限られるっスから踏ん張らないと」
「さすが、新田さん。補助監督の鏡ですね」
「いやいや、そんなことは」
少しは回復したのか、の言葉にあかりは軽い調子で冗談交じりに応じる。
そして談笑を終え、ずっと目を背けようとしていてもこの部屋でずっと存在を主張しているモノへとは視線を移した。
「ところで・・・この腐海の森状態の机はもしかしなくても伊地知くんので合ってます?」
「・・・はいっス」
「わー、今まで見た過去一ヤバい高さだな・・・」
すぐさま表情を暗くしたあかりに、分かっていた事実の裏付けを得てしまったは乾いた笑みを返すしか無い。
部屋に入ってきた時点で、目測に届く書類の山は見たことがなかった。
おかげで対比効果で他の机の上がまだマシと思えてしまう異常事態。
常ならば机の上に書類が散乱しても数枚程度だというのに、どうしてこの机だけ、との疑問は当然、の優秀な同期の机であれば合点がいった。
とはいえそんな優秀な一人に偏りすぎとも言えなくないが、この状況がしばらく続くことしか分かっていない現状では致し方ないともいえる。
と、緊張が解れたからか、うつらうつらと船を漕ぎ出したあかりには手にしたコーヒーカップを置いた。
「新田さんも少し仮眠してはどうですか?」
「いや・・・そういう、わけには・・・」
「私、伊地知くんに用事あるので起こせますから、遠慮しないでください」
「・・・じゃぁ、1時間・・・だけ・・・」
最後まで続けられず、あかりはあっという間に寝息を立てた。
は棚から予備の上掛けを取り出すとあかりに掛け、よしっ、と一言呟くと対戦相手へと足を進めた。
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2024.3.12