それはとある昼下がりのこと。
「さん」
「なんですか?」
いつものように蝶屋敷での手伝いをしていた時だ。
屋敷の美しい主が、小首を傾げて美しい笑顔で尋ねてきた。
「喧嘩でもされたんですか?」
ーー手遅れーー
瞬間、ゴングが鳴らされたようにしのぶとを取り囲む空気が氷点下へと下がった。
しのぶの完璧なまでの笑顔に、の方もこれまた晴れやかすぎるほどの笑顔でにーっこり、と返した。
「何の話ですか?」
「いつもならこんなに長く蝶屋敷に居ないですよね?」
「そんな事ないですよ」
「向こうに任務がない日は決まって半日は顔を出してたと思いますけど?」
「気の所為ですよ」
「負傷されたとの報告で一番ソワソワしてたのは誰でしたか?」
「しのぶさんでは?」
小首を傾げ返したにしのぶの米神が波打った。
不穏な気配に二人の周囲から人が消え、部屋には誰も居ない。
それでも尚、両者の笑顔は変わらない。
と、このまま笑顔での応戦を続けるつもりがないは倉庫に持っていく荷物を抱えしのぶに背を向けた。
「さん」
「小言ならお腹いっぱいですさようなら」
正面から睨み合ってないことで、笑顔が引っ込んだは淡々と真顔のまま後ろを執拗なまでについて来るしのぶに言い捨てる。
「真面目な話、意地を張らない方が良いと思いますよ」
「張ってません」
「全てはさんを心配しての事だったんじゃないですか?」
「さーて何のことやら」
「・・・」
わざとらしく軽口で応じるに、しのぶの気配はどんどん荒々しく変わっていく。
それを背後で感じながらも、手早く倉庫に荷物を置き、元の調剤室へと戻る。
しかし無言の、至近距離ストーキングは終わる事なく、腰を下ろした背後に引っ付くような圧には早々に根を上げた。
「・・・・・・」
「はぁ・・・
あのですね蟲柱様、末端の隊士如きの事などーー」
ーーバタン!ーー
「しのぶ様!」
その時、調剤室のドアが荒々しく開かれた。
普段ならそんな事をしない乱入者のアオイに、しのぶはただならぬ事態を察しすぐに表情を変えた。
「アオイ、どうーー」
「離れに運び込まれた岩柱様の容態が急変しーー」
ーーガダッ!ーー
「
さん!あなたが行ってはーー」
その場で誰よりも早く動いたは走り出す。
制止の声も無視し、目的の部屋へと駆ける。
心臓が無駄に、嫌に大きく響いて普段はできているはずの呼吸がうまくいかない。
(「嘘、だって・・・だって前の負傷は軽かったって・・・」)
新たな任務で負傷したのだろうか?
でもあの人ほどが容体が急変するほどの負傷なんて、相手は上弦ということなる。
そんな上弦相手の負傷、私に手当てが出来るのか?
駄目だ、悪い予感ばかりが巡る。
(「私でどこまで処置できーー」)
ーードンッ!ーー
頭がいっぱい過ぎて、やっと我に返ったのは目的の部屋を目と鼻の先にした角で誰かとぶつかった時だった。
不甲斐ない、そう言われても仕方がないほど不様に廊下に尻餅をついた。
しかしそれよりも、行く手を阻んだ相手に怒りが湧き思わず睨み上げた。
「っ・・・この」
「すまない、怪我は無いか?」
届いた声に耳を、疑った。
「え・・・なん、で・・・」
そこには、何処からどうみても五体満足で負傷のふの字も見当たらない岩柱・悲鳴嶼行冥その人。
見上げるだけで、呆気に取られるしかないに、不思議そうな怪訝顔が返される。
「どうした?」
「どうって・・・負傷、したと・・・だって、容体が急変したんじゃ・・・」
「?
私はしのぶから離れで待つように言われただけだが?」
「・・・え」
呆然とするしかない。
しかし、目の間の現実を目の当たりにすれば、当然その考えに至る。
いや、きっと普段の自分ならちゃんと分かっていただろう。
どう考えても、これは、あれか・・・いや、そうだよな。
(「だ、騙された・・・」)
悪趣味で、腹が立つほどの策士の笑顔がこの時ほど苦々しく思ったことはない。
内心、拳を握るしかできないに事情を察したのか、行冥は手を差し出した。
「急ぎの用が無いなら、少し付き合わぬか?」
そのまま戻って乱闘騒ぎ上等、と思っていただったがしのぶの鎹鴉からの『次の共同任務の打ち合わせをしなさい』という追撃通達に仕方なく行冥の申し出に従う。
「しのぶに踊らされたか」
「・・・別にそう言う訳では」
「私を心配して飛んできたのだろう?」
「・・・」
離れの狭い一室で、行冥が座る中央からあえて出口の襖近くに陣取ったは明後日の方向を向く。
直前の行動が答えであるが故に、下手な言い訳は墓穴だと閉口するしかない。
もうさっさと目的を果たしてこの場を去るしか考えないことにする。
「そんなことより、次の任ーー」
「有り難いことだな」
「次の任務のはなーー」
「素直にその気持ちは嬉しいと思う」
「人の話をーー」
「逆の立場ならどうだ?」
「あの!」
視線を合わせないようにしていたの声が荒いままその人に向けられる。
しかし、交わされた視線には答えを聞くまでは話を続けるつもりはないそれ。
自分も頑固だがこの人も同類だということは骨身に染みていて、は再びそっぽを向きあからさまを隠すことなくため息をついた。
「・・・はぁ、悲鳴嶼さんは私如きの負傷などにーー」
「聞いているのはお前の心持ちだ」
「・・・」
「お前が迷惑だというならもう関わらん」
「・・・・・・」
沈黙しか返らないに、業を煮やしたのか伸ばされた太い腕が肩を掴んだ。
「、せめて話す時はちゃんと・・・!」
しかし肩を引かれたは、畳に水滴の音を立てるほどボロボロと涙を流していた。
予想外の状況にぎょっとした行冥の手は外れ、オロオロと行き場のない手が彷徨う。
「わ、たしは・・・諦め、ようとして・・・なんで・・・」
「その・・・、落ち着ーー」
ーーバンッ!!!ーー
「私は!」
泣きながらも半ば自棄になったようなは力一杯畳を叩く。
ビリビリと空気が震える。
先程とは一転した激情を向けられた行冥も思わず瞠目した。
「容態が急変した患者が居るって聞いたから来ただけです!」
「そうか」
「手当のために急いで来ただけ!」
「そうか」
「だから!心配なんてしてない!」
「そうか」
「そもそも!心配されても嬉しくない!」
「そうか」
「なので!そんな風に思われても迷惑なんです!」
「そうか」
「だから!私は!私が言いたいのは・・・悲鳴嶼さんの、ことなんか・・・」
畳を叩く音と共に言葉尻も萎んでいく。
勢いを完全に失い、うなだれ、言葉が続かないに行冥が先を促した。
「私の事なんか?」
「っ・・・」
優しい声に再び溢れそうになった涙を引っ込めようと、噛んだ唇が切れる。
鉄の味が口内に滲む中、は荒れ狂う胸中と戦っていた。
言え。
この人を巻き込むな。
誰よも不幸を背負うべき一族が人並みの幸せを願うなど、あってはならない。
この人が得るはずだった幸せを奪うなど、あってはならない。
この苦しみも痛みも、全ては受けるべき罰。
告げろ。
はっきりとした拒絶を。
この人はまだ引き返せる。
傷が浅いうちに、早く。
「・・・ただの、上官です」
「・・・そうか」
の言葉に、小さな応えが返された
これ以上、この場に居たくない。
任務は自分一人で行けばいい。
涙を拭ったは小さく嘆息すると腰を上げた。
「話は済みましたので、失れーー」
ーーパシッーー
手首が荒々しく掴まれる。
痛いくらいの力に、顔を歪めたは相手を見据えた。
「っ・・・何をーー」
「お前は私を試しているのか?」
初めて聞いた、低く怒りに満ちた声だった。
「目の前で涙を流され、身を切るような声を絞りだされて告げられた言葉が、本当にお前の本心だと。
本気で私が信じると思うのか?」
「信じる信じないは勝手です。
私は思ったことしか言葉にしていない」
「そうか、ならお前も私の言葉を本気にしていないと言うことだな」
立ち上がり見下ろされた威圧感にも怯えるでもなく、は話を続けるつもりはないとばかりに顔を背けた。
「今更、あなたの言葉の何をーー」
言葉は続かなかった
顎にその人の手が触れたと思った瞬間、唇を奪われていた。
普段からこちらの意に反する事をしな人だと言う油断があったからか。
それともこんな事に免疫がないという高を括っていたからか。
「ふぁ・・・んん!・・・!」
さらに深くなる口付けに呼吸すら奪われ、反抗するようには行冥の胸板を叩く。
しかしそれでも離してもらえず、行冥の指がの耳に触れた。
「ゃ、やぁ!」
ーーパンッ!ーー
室内に乾いた音が響くと同時にを阻んでいた拘束が解かれる。
初めて手を挙げたこと、目の前の人物がどうしてここまでしたのか分からない。
肩で息をするようなは、こみ上げる涙を堪えながら問うた。
「なん、の・・・つもりのですか」
「言葉で分からないなら、行動で示したまでのこと」
僅かに赤い頬。
この人なら自分の張り手など簡単に避けられる。
『避けなかった』
わざわざ殴られる為に直前の行動に走らせたのかと思うと一刻も早くこの場から消えたかった。
「・・・私は、あなたの事などーー」
「私はただの部下にこんな事はしない」
「そうですか、なら一時の気の迷いにしておきますので」
「そうやって逃げるのか?」
「!逃げてません!」
逆鱗に触れられたようには怒鳴った。
いや、もはや悲鳴に近かったかもしれない。
触れられたくない、暗い部分。
背負った使命、誰よりも罪深い血が流れる自分の存在を自覚している。
だからこそ、その言葉は何よりも自分が選択することが許されず向けられたくない言の葉だった。
「私は己のやるべき事から逃げてなどいません」
「私の言葉を正面から向き合えないお前が、逃げてないと言えると言うのか?」
「・・・言ったはずです。私はーー」
ーーパシッーー
「やーー」
「」
その場から今にも飛び出そうとしていたを再び行冥は捕らえる。
しかし今度の拘束はあまりにも緩く、まるで傷だらけの心を包み込むような優しい抱擁だった。
「いつまで嘘言を続けるつもりだ」
簡単に抜け出せるはずなのに動けなかった。
嘘。
確かに、共に戦っている者達に真実を告げていない。
しかし、それはまだその時じゃないからだ。
自分は嘘をついてなどいない。
だって、優先するべきは自分の事じゃないのは決まっているんだから。
だからこそ、自分に誰かが深入りする事を望んで来なかったし、望まなかった。
元々、自分には望むことが許されない事なんだから。
「柱のあなたに私は釣り合わない」
「お前が気にしているのはそれではないだろう」
「そういう事ですよ、これ以上私に期待しなーー」
「手遅れだ」
「!」
あぁ・・・聞きたくない。
「もう、手遅れだ」
「・・・そんな事ない、あなたはまだ引き返せる」
「無理だな、私はお前がーー」
「違います!」
「言ったはずだ、もうお前の言葉は信じるに値しないと」
「っ・・・」
望んではいけないんだ、私は。
それなのに、この人は私に・・・
「こちらの方が雄弁だな」
頬に流れる涙を行冥の大きな指の腹で拭われる。
昔から人前で涙を流すことはほとんど無かった。
それは鬼殺隊に入ってからも、親しい友人が鬼に殺されても変わらなかった。
心は酷く痛むのに、涙が出ない。
それなのに、どうしてこの人の前では感情の抑えが効かないんだろうか。
不幸が決まってい道に足を踏み入れようとしているこの人をどうすれば思い留まらせることができるのか、どうしたら追い返せるのか、もう分からなかった。
「普通の幸せすら手放すなんて、正気じゃありません」
「お前が居らずに幸せもあるまい」
「あなたの隣に居るべき人は私じゃーー」
「」
耳元で呟かれる自身の名を呼ぶ声。
どんな血鬼術よりも身動きを止める拘束だった。
「これ以上、手間をかけさせるな」
「・・・っ」
「お前が何か大きな物を抱えているのは分かる、まだ私に話せないと言うなら聞かぬ。
だが、もう手放すつもりもない」
こちらを気遣うどこまでも優しい声。
この安心できる存在にずっと抱きしめて欲しかったのかもしれない。
行冥の優しい声にの涙は止まる事を知らないようだった。
もう、互いに手遅れのである事に両脇に下されたの腕が行冥の羽織を掴んだ。
「いい加減、諦めなさい」
うちの子を泣かせてみたかったの
>夕刻時
「あら、さんもう良かったのですか?」
「・・・しのぶさん」
「あ。お礼は結構ですよ、お陰で本日の夕餉はお赤飯になりましたから」
「・・・は?」
「ほら、両想い記念ですよ。
悲鳴嶼さんには首を縦に振らなきゃ操を奪うなりして既成事実先行ともお伝えしましたし」
「・・・しのぶさん」
「あら、ですからお礼は結構ですよ」
「そうですか、ではちょっと裏山で拳で語り合いましょうか?」
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2021.06.13