ーー願うはただ・・・ーー
蝶屋敷邸。
白銀の月光を浴びながら、は息をついた。
(「倒せたんだ・・・」)
激戦から一週間。
負傷者の手当てを全て終え、時間は既に深夜となっていた。
この蝶屋敷に運び込まれた者は全て、峠を越した。
もう命の危険はない。
これ以上、失われることはないんだ。
あの戦いでたくさん失った。
大き過ぎる犠牲を払った。
だが、鬼舞辻を倒した。
やっと倒せたんだ。
(「もう・・・充分だよね」)
宿願を果たし、同志の命も可能な限り救った。
目的は達した。
夜空はとても高くて、星も月も輝いていて、世界はこんなに綺麗だったんだと思えた。
ようやく、受け入れられる。
は携えていた日輪刀の唾を上げた。
と、その時。
ーーバサッ、バサッ・・・ーー
静寂を破って羽音と共に自身の鎹鴉が現れる。
指令などあるはずもない。
何より10年以上の付き合いとなった今では、それこそ阿吽の呼吸に近い間柄だ。
肩に降り、頬にすり寄る鴉には困ったように小さな相棒へと手を伸ばした。
「縹、こんな時間にどうしたんですか?
もう、あなたも好きなように生きていいんですよ。
今まで無茶な私に付き合ってくれて感謝しーー」
「まるで今生の別れの言葉だ」
「!」
鎹鴉を撫でていた手が止まった。
今一番聞きたくない声に振り返れば、包帯を巻かれたその人の厳しい気配が刺さる。
冷たい汗が、伝った。
「それに、酷く落ち着き過ぎた気配だ。
いや・・・悟りに近いな」
縁側に現れた行冥の言葉の端々に怒りが滲んでいるのが分かった。
意識を取り戻すまで、まだかかると思っていたのに。
は深く息を吐くとゆっくりと口を開いた。
「・・・傷に障ります。まだ絶対安静ですから横になっていなければ駄目ですよ」
「他人のことをお前が言えるのか?」
「傷が開いて、重傷者の私の手をまた煩わせる気ですか?」
「そうしてくれ」
「何を仰るんですか。さぁ、部屋にお戻りください」
は取り繕うように笑い、口を閉ざした。
もう話は終わり、いつものようにそう振る舞い再び縁側に背を向けた。
いつもなら相手はそれで立ち去る。
早く消えるように願いながら、その足音が響くのを待つ。
しかし、
「」
「・・・」
「」
「・・・まだ何か?」
抵抗するように口を噤んでいたが、なおも食い下がる行冥には背を向けたまま応える。
「部屋まで手を引いてくれぬか?」
「すみません、先ほどまで怪我人の手当てしてまして両手が汚れてるんです」
「なら何故、中庭に居る?」
「少し風に当たーー」
「日輪刀を持ってか?」
「!」
動けないと思っていたその人は、自身の腰に下げた刀を掴んでそう言った。
驚きと動揺で咄嗟に言葉が出なかっただったが、諦めたように重くため息を吐いた。
「はあ・・・どうして、いつも悲鳴嶼さんには見破られてしまうんですかね」
「今回は辛うじてだがな。お前の優秀な相方のお陰だ」
「縹が?」
「私をここまであないしてくれた」
優秀過ぎるのも考えものだ。
肩の鴉を睨みつければ、一歩遅くすでに逃げ出した後だった。
とは言え、今更怒った所で手遅れか。
「・・・許して、くださらないんですね」
の小さな呟きが闇の帳に滲んで消える。
しかしそれに言葉も身動きも返されない。
無言故の雄弁な答えだ。
「やっと・・・ようやくやっと、受け入れられるんです。
この日をどんなに待ったか、悲鳴嶼さんなら分かってくださりますよね?」
自分の生い立ちを、どんな覚悟で今まで戦ってきたかを。
この人は知っている。
長い長い呪われた楔はついに断ち切られた。
気が狂いそうな犠牲を目の前にしても、何度死にかけても受け入れられなかった。
自分を蝕む強迫観念はもう、ない。
贖罪は果たした。
だから、この願いを阻まないで欲しい。
「私はこの事態を引き起こした発端の責任を取らなければなりません。
お館様にも全てお話ししています。
私の死を以て、生き残った全隊士に係る責任の恩赦及び生活の保障を約束してくださいました。
ですから、悲鳴嶼さんはゆっくりーー」
ーーパンッーー
乾いた音が空気を割いた。
頬に走るジンジンとした熱のそこを押さえる。
痛みではなく驚きが勝った。
今まで叱責はいくらでも受けてきたが、手を上げられたのは初めてだった。
「巫山戯るな」
歯軋りの音まで聞こえた気がした。
ここまではっきりとした行冥の怒りも初めてでは目を見開いた。
「鬼舞辻を倒した事で、既にお前の責任は果たした。
このまま死を選ぶなど、殉職した同志の想いを踏みにじるつもりか」
「・・・・・・」
肌に刺さる殺気にも等しい低い怒声。
間近で向けられていたは長く、長い沈黙しか返せない。
「・・・無理です」
息が詰まるほどの時間を経て掠れる声が零れた。
「私には、もう・・・無理なんですよ」
声が震えないよう、懸命に呼吸を整える。
は行冥が掴んでいる鞘を自身も掴むが、震えは酷くなるばかりだった。
「・・・もう、これ以上・・・一人で立ってられないんです。
責任を、償うべき罪が消えた私には、もう・・・」
行冥の顔を見れないは言葉が続かない。
堪えていた涙が掴んだ刀に落ち音を立てる。
そこに居たのは、柱と並ぶ屈強な剣士の姿などではなく。
傷を負っても自分を顧みることなく鬼を狩る同志の姿でもなく。
これまでずっとひた隠しにしていた仮面が剥がれ落ちた悲鳴。
触れれば折れそうなほど、脆く弱々しい。
手を伸ばせば互いに届く距離にいながら、は刀を掴み立ち尽くすだけ。
今にも崩れそうなの言葉を黙って聞いていた行冥は静かに問うた。
「そこまでして責任を取りたいのか?」
「・・・」
「お前は理由がなければ生きられぬか?」
「・・・・・・」
行冥の詰問には何も返さない。
の願いに気付いているはずの行冥も、あえてその言葉を口にしないまま両者は再び沈黙した。
「ならば傍に居ろ」
言われた意味が分からず、は思わず隣を見上げた。
「・・・え?」
「これからは、私の心を捕らえた責任を果たせ」
真っ直ぐに注がれる視線。
は黙したまま首を振った。
違う。
あなたの隣に寄り添うことは、違う。
そんなの責任を果たす事にならない。
「私の隣で共に生きろ」
行冥の言葉には後退った。
しかし刀を掴んだ手は離せず、両者の距離は開かない。
涙が止まらないまま、は声を絞り出した。
「・・・できません。私は死にたいんです」
「それは許さん」
「悲鳴嶼さんの許しなどーー」
「お前の先祖の所為で私の命は幾ばくも残っていない」
「っ!」
冷徹な行冥の言葉にの肩が目に見えて跳ねる。
いつもの彼らしからぬ言動だと分かっていても、の顔は痛みに歪んだ。
反論しようとするより先に行冥は続けた。
「なれば私の死を看取る責任がお前には残っているはずだ」
「・・・そんなの」
卑怯だ。
そんな言い方をする男ではない。
そう言わせているのは・・・
(「・・・私、だ」)
先ほどよりさらに心が痛む。
誰よりも優しいこの人にここまで直接的な物言いをさせてしまった。
罪悪感で押し潰されそうだ。
「・・・すみません」
「謝罪を求めたように聞こえたのか」
「あなたを傷付けて平然としてられるほど、私は・・・・・・嫌えも憎めもしないし、できません」
ついに膝を折ったは、地面に崩れ落ちた。
刀を掴んでいた手も離れ顔を両手で覆ったは声を押し殺し嗚咽していた。
今までそのような姿を見せたことがない。
今までが気丈過ぎたのか。
生まれてから背負わされた過酷な重荷が消えては、自分を見失うのも致し方なしとも思えた。
「お前のその想いの大きさと、私がお前に生きて欲しい想いの強さは同じではないか?」
「・・・」
「」
行冥も膝を折ると、同じ目線の高さになったの肩に手を置いた。
「追い詰めるような言葉を選んだのは、すまなかった」
「ちがっ・・・そうさせたのはーー」
言いかけたの言葉は、行冥の腕の中に引き寄せられ阻まれた。
「もう良い・・・もう、十分過ぎる。
だからもう一人で立つことも歩くことも生きることもするな」
消毒薬と白檀の香り。
行冥の言葉に、腕の中のは息を呑んだ。
さらに抱き締める力を強め、行冥は続けた。
「・・・残された時間、共に生きてくれ」
「・・・それは」
「互いに残された時間は僅かだ。わざわざ死に急ぐな」
懇願が込められた言葉に顔を上げたの涙を行冥の大きな手が拭った。
柔らかい語調で紡がれた同じ言葉に、さらに溢れた涙が行冥の手を濡らした。
「立てぬなら私が手を貸そう、歩けぬなら私が支えよう、先が見えぬなら共に進もう。
ずっと暗闇の世界で過ごしてきた私なら少しは手を引ける」
「・・・わた、しは・・・」
「今答えが出ないなら、その答えが見つかるまで隣に居てくれぬか?」
どんな答えでも包み込んでくれる慈しい笑み。
冷静になった今、言われた意味がいくら鈍感な自分でも分かる。
「・・・どうして、私なんですか」
これまで以上に情けない姿を見せた。
それなのにこの人はまだ私に手を差し伸べてくれる。
全ての元凶の血を引いているのに、いつも未熟で心配ばかりかけていたのに。
この人はいつも自分に必要な言葉を、赤黒い道を照らす光をくれる。
「今も昔も、私の暗闇の世界に光を差したのはお前だけだ」
「・・・悲鳴嶼さん」
「残りのお前の時間をくれぬか」
「っ・・・」
その言葉に再び涙が溢れる。
同じだった。
長い長い宿命に絡まれ、己の価値を見出せなかった私を掬い上げてくれるこの人に敵うはずない。
答えなど、決まっている。
「はい・・・いくらでも差し上げます」
Back
2020.9.2