ようやく夏の暑さが落ち着き始めた頃。
高専の屋外自販機スペースに、壁に身体を預けている者がぼんやりと宙空を眺めるように座っていた。
その姿はまるで未だ主役の座を譲るつもりがない騒がしいセミと対照的に、今にも影に沈んでしまいそうな空気をまとっていた。
ーー憂いの晩夏ーー
また夢を見た。あの人の夢だ。
「・・・」
何度も繰り返し見てしまう、もう取り戻せない日々。
余計なお世話だろうと思いながら言葉をかけても、気遣う言葉は全て受け流されて。
かと言って行動で示そうにもその人は自分よりもはるか先を行く実力者故にできることなどはなくて。
何もできず、相手に何も求められない。
そんな自分を嫌悪して、打ち拉がれて、何度眠れない夜を過ごしながら、再び襲ってくるのはまた最初の不毛な思考の繰り返し。
(「キッツイな・・・」)
そして、自分がそんなまごついている間にその人はもう二度と戻ってこない先へと行ってしまった。
忘れてもいい時間が経ったはずだというのに、自己嫌悪が日増しに重なってしまうループからいつになったら抜け出せるのだろうか。
「顔ひっど」
届いた暴言に目蓋をこじ開ければ、タバコを片手にした硝子が見下ろしていた。
久しぶりに会ったが、今日は目の下のクマは薄いようでそこまで忙しくはなさそうだ。
そんなことをつらつらと考えている間に、硝子は自販機で飲み物を買うと振り返って
を再び見下ろした。
無言の回答をせっつく圧に、何と返したものかと壁に頭を預けながら気力をかき集める。
「・・・」
「顔ひっど」
「なんで繰り返すんですか」
しかし上手い返しが浮かばず
は預けていた後頭部をどうにか壁から離し、ずっしりと思考が詰まったそれのせいで顔を俯かせながらため息をこぼした。
「はぁ・・・」
「お疲れだな」
「見ての通りです」
「任務疲れって感じじゃないな、原因は分かってんのか?」
「・・・まぁ」
俯いていたのにひんやりと冷たい手が額に当てられ、強制的に顔を上げさせられた。
曖昧に返すも、注がれるまっすぐな視線は見透かされているようで思わず
は硝子から視線を外す。
それが気に入らなかったのか、硝子はタバコを一気に吸った。
「なんだ、嫌に反抗的だな」
「硝子サンニハイツモ素直デス」
「どうだかな、お前は本音を隠すのは巧妙だからな」
「言い方ぁ」
人聞きが悪い。
さもこちらが悪いみたいな、流れるような責任転嫁はかつての学生時代を嫌でも思い出させる。
こんなことになるなら、大学の勉強が忙しいと尤もらしいことを言えば良かった。
そう思えば再び襲われる自己嫌悪。
胸の奥に走る疼痛を堪えるように口の中を噛んだ。
と、
「
」
「はい?」
「お前の所為じゃないんだからな」
「・・・」
出し抜けの言葉に言葉を失った。
だがどうにか表情には動揺を見せまいとしている
が平静を装っている中、その内心をすでに知っているような硝子は気楽な調子で続けた。
「つーか、そもそもお前は気に病む必要ない。そんなんで怪我してちゃ仕事が増える」
「すみません」
「そもそもあいつが決めた事だ。それにお人好し発揮して、お前がご丁寧に拘ってやることないんだよ」
「はは・・・硝子さんが言う事ですから、正しいですね」
「まぁな。
でも、それがお前にとっての正解になるとは思ってないよ」
「!」
目を瞠ってしまい己の迂闊さを呪った。
これでは心の葛藤に正解を与えたようなものだ。
いや、伊達に短い付き合いではないからきっと今の状況についてもこの人は正確に見抜いているんだろう。
自己嫌悪のどん底です、顔の
に硝子は額に当てていた手を外した。
「ただな、お前がしんどそうにしてるのを黙って見てるのはできないってだけだ」
「・・・すみません」
「ばーか、ここは礼を言うとこだ」
再び俯いてしまった
に軽口で硝子は応じる。
それに同じ調子で返せれば良かったが、今日に限ってはそれができなかった。
しばらくして、
の頭に優しく撫でるように硝子の手が乗った。
ーーぽんっーー
「とりあえず、今日は帰って休め。伊地知に話し通しといてやる」
「いや、さすがにそれは・・・」
「抜けた分は五条にやらしときゃいい。責任の半分をあいつに取らせてもバチは当たんないよ」
いやー、それはそれで後日に別のバチが当たりそうで逆に嫌だ。
絶対文句に嫌味に恩着せがましく言うのが目に見えている。
「いいですよ。定期の見回りくらいなんですから」
「お前はまだ正式な高専の術師じゃないだろ、女子大生」
「今から代わりを探すにしても、伊地知くんが大変になるだけです」
「それでいいだろ。それがあいつの仕事だろうが」
「その仕事をさせた結果として、彼が五条さんに詰められて時間を無駄に浪費して別の術師探してる間に等級が上がって硝子さんの安眠妨害となるかもしれませんから、私が行った方が手っ取り早いと思いません?」
「・・・」
つらつらと並べられた予測はまるで未来を予知しているようだが、十分な説得力のある流れ。
弱々しく笑う
に見上げられた硝子は呆れ顔となり、年齢とは不釣り合いな仕事の立ち回りに対して思わず本音がこぼれた。
「お前、将来ハゲるぞ」
「そこは感謝の言葉のはずでは?」
三度の暴言に
は苦笑しながら応じる。
その様子に意見を曲げるつもりはないことを察した硝子は嘆息した。
「授業の方はいいのか?」
「ツテをフル活用させていただいてますから、お陰様で実技さえ押さえられれば問題ありません。
私は医者になるつもりは無いので、期間はだいぶ短縮できます」
「短縮できてんのはお前が座学を高専生の間に詰め込んだからだろ」
「その節もお世話になりました」
「参考書譲っただけだがな」
買った炭酸水のキャップを開けた硝子が
の隣で傾ける。
ジリジリとした特有の刺激が喉を通り抜け、僅かばかりの眠気が離れていく。
しばらくして、セミの喧騒だけの会話が無い沈黙の空気をスマホの着信が破った。
「分かった、すぐ戻る」
短いやり取りのさなか、ご指名が入った硝子は腰を上げた。これから負傷した術師が運ばれてくるのだろう。
短い休憩を強制終了させられた硝子は
に向いた。
「じゃ、気を付けてな」
「はい。そちらもお疲れ様です」
硝子の歩き出す後ろ背を見送る。
と、今になって最初の切り出しの不可解さに気付いた
はその背を呼び止めた。
「硝子さん」
の呼びかけに硝子は止まり振り返る。
だが、今更そんなことを確かめたところで、醜態の上塗りになるのではないだろうか。
一人また思考ループに陥り続きを止めてしまった
は沈黙を繋ぐ言葉を探す。
「・・・」
「どうした?」
「あ、その・・・・そんなに分かりやすかったですか?」
結局、こぼれたのは月並みな言葉だった。
何について思い悩んでいたのかを見抜かれた。
自身、その理由を一言も説明していないというのに、この先輩はあっさりと言い当ててしまった。
一人迷走を続けているような
の姿に硝子はふっと笑った。
「お前、私らのこと大好きだろ」
「・・・はい?」
「後輩に慕われるのは悪い気はしないけどな、そんな顔になるまで思い悩まれちゃフォローするのが先輩の役目だろ」
「えっと・・・」
「医者の観察眼なめんなよってことだよ」
ひらひらと後手を振った硝子は再び
に背を向け去って行ってしまった。
答えになっていない返しを受けた
は追及を諦めるしかなく、深くため息をついた。
(「やっぱり、見透かされてたってことか・・・」)
どうにもこの季節は苦手だ。どの時期でも仲間であるはずの術師の死はもう数多く経験しているというのに。
学生時代の苦い経験は今なお爪痕深く己の心に突き刺さっているようだ。
小さく嘆息をこぼしたその時、今度は
のスマホが着信を告げた。
タイミング的に補助監督からだろう。
画面を改めて確認し、予想通りだったことで応答し短いやり取りを終えて駐車場で落ち合うこととなった。
「・・・」
空を見上げれば、うろこ雲が広く覆っていた。
人の気持ちなど意に介さず、季節は迷いなく次の季節に向かっている。
しばし、睨みつけるように上げていた視線を本来の行き先に戻すと、
の足は目的の場所へと動き出すのだった。
医務室へと戻りながら硝子は飲みかけの炭酸水のペットボトルを手にし、隠し事をバラされたことに驚きを隠しきれない別れ際の後輩のことを思った。
(「もう何年目だと思ってんだか。あいつは自覚ないのかね」)
隠し方が年を追うごとに巧みになってきてはいたが、まだこれまでの付き合いから違和感はある程度把握できている。
今後、その違和感さえ隠してしまうような気がしないでもないが、この不調のサイクルを知っていれば問題はないだろうと結論づけた。
ーー「あ、その・・・・そんなに分かりやすかったですか?」ーー
(「そりゃ、分かるだろ」)
木張りの廊下の軋む音を聞きながら、先程の不安気な後輩を思って内心で応じた。
自身がそこまで情け深く無いことは自覚している。
それが医療者としての自己防衛本能のためか、生来の性格かは気にしたことはない。
だが、高専で過ごした時間は割と気に入っているし、馬鹿なことをした同期は今も馬鹿なことをした奴だと思っている。
そんな馬鹿と最後に交わした約束は、同期のよしみでできるところはやっておくかと思っただけだ。
『あの様子じゃ五条の奴、血相変えて飛んでくるぞ』
『だろうね』
『夏油』
『うん?』
『お前、
に何も言わないつもりか?』
『・・・あぁ、今会ったら攫いかねないからね』
『けっ、女々しい奴』
『はは、耳が痛いな。でもまぁ、たとえ攫えてしまったとしても彼女は呪術師であることを辞めないと思うんだ』
『勘か?』
『まあ、そんなところかな。だから硝子ーー』
どうしてあそこまで身を削ってこんなろくでもない世界に留まるのか。
いっその事、一つ上の先輩を見習ってこんなところ見限ってしまえば楽だろうに、と何度思ったか。
卒業してすぐに術師として前線に出るかと思えば、大学に行くからと口利きを依頼され通っているのは救急救命学科。
敬遠されていたはずの親族にもわざわざ連絡を取っているとも聞いた。
その行動原理が一体何なのか、今更、野暮過ぎて聞く気にもなれない。
「んとに、どいつもこいつも馬鹿ばっかりだな」
最後の煙を吐き出し、携帯灰皿に吸い殻を押し付けた硝子は医務室のドアを開け仕事の準備に取り掛かり始めた。
『ーーあの子のことは頼んだよ』
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2025.12.07