廃ビルの前では、黒いスーツの青年がスマホを片手に右往左往と挙動不審な動きを見せていた。

「どうしよう、帳上がったけど連絡ないまま1時間経つし・・・これ、やっぱり伊地知先輩にーー」
ーースッーー

液晶画面の発信ボタンを押す直前、目の前が真っ暗になった。
いや、まるで何かで視界を覆われたようだ。
違和感を認識するより早く思考は奪われ、まるでモヤががかかったように感覚が遠のいていく。
そして、絡みつくような声が囁いた。

『君はこれから高専に戻ってこう報告するんだ。術師を自宅まで送り届け、自分は高専に戻ったと』
「・・・はい」
『そして術師は自力で歩けたし、念の為明日は休む連絡を受けた。いいね?』
「・・・はい」

暗示にかかったように青年はスマホを懐へ戻すと、車に乗り込みそのまま発進させる。
それを見送った男は、先程まで青年が見上げていた廃ビルへと足を進めた。
誰もない物悲しい空っぽの筐体に静かな足音が反響しては消えていく。
そしてその歩みは意識を失ってぐったりとしている術師の前で止まった。
常ならばこの距離は相手の間合い、だが男の存在に気付かぬほどその術師は荒い息を吐くだけだった。

「全く、困った子だね」

膝を折った男の言葉が廃墟に響くと、次の瞬間にはその場から人影は跡形もなく消えていた。



































































































身体が浮遊感に包まれている気がする。
夜風が頬を撫でているような感覚が、僅かに意識を覚醒させる。

「気が付いたかい?」

かけられた声にゆるゆると視線が移り、朧げな視界が像を結ぶ。
飛び込んできた光景に目を見張るも、こぼれたのはずっとぶつけようとした言葉ではなかった。

「はは・・・」
「どうかしたのかい?」
「未練がましい、夢なの・・・笑えます」
「そうか」
「そう、ですよ」

必死に溢れそうな激情を堪えようとするも、声の端が揺れる。
しかしそれより雄弁にの表情は苦しげに歪んでいた。
唇を真一文字に引き結びながら、目元を手の甲で隠すに傑は額に手を当てながら口を開いた。

「随分熱が高いよ、無理し過ぎる前に休まないとダメじゃないか」
「ええ・・・私ってあなたが思ってるより、不出来な後輩ですもん」
「いつになく卑屈だね」
「事実、です」
「そうかな?体調を押して仕事をしてるだけでも凄いことじゃないか」
「・・・」

優しい声。優しい気遣い。
視界を邪魔する自身の手をどかせば、きっと記憶通りのその人が居る。
あの時から変わらない、その事実が視界を、声をより滲ませる。
答えを返そうとする度にどれだけの気力を使っているか、目の前の男はきっと知らない。
葛藤の渦にいるに、傑は先程と変わらない語調で続けた。

「体調が悪い時くらい、弱音を吐いてもいいんだよ」

あぁ、ホント・・・なんて都合の良い夢なんだろう。
敵対しているはずのこの人が、敵である自分を気遣ってくれているなんて。

「もう、大人です・・・吐けま、せんよ」
「そうしてしまったのは、私の所為だね。すまーー」
「だ、め・・・」

続く言葉を阻むように、反射的に視界を覆っていた手が男の服を掴んだ。
そして、開けた視界には繊月が横顔を照らす驚いた男の顔。
僅かな月光だと言うのに、とても眩しく感じられ、は目を細める。

「どうして・・・げと、が・・・謝、ですか」

嫌だ。
聞きたくない。
何故、その言葉を口にするんだ。
それを言うべきは、こちらのはずなのに。
その言葉を伝えるために、見合うだけの力を付けねばならないと走り続けてきたというのに。
その言葉をこちらが受けては、保たれてきたはずの決意が容易に折れそうだ。
頭が重く視線を上げていくことすらできなくなったは項垂れたまま、掴んだ手をそのままに続けた。

「私、強くなったんですよ」
「そうだね」
「誰でも、容赦なくな・・・し」
「うん」
「呪詛師だって、何人も・・・」
「うん」
「なの、に・・・」
「うん。変わったね」

服を掴んでいた手が更に大きな手で包まれる。
夢にしては随分と現実味のある感触。
ダメだ、気を張っていなければ意識がすぐにでも底に沈みそうだ。

「それとも学生の時は酷く無理をしていたのかな」
「・・・え?」
「昔はこんなに、泣いてなかっただろ」

そう言われて、初めて自分が涙を流していたことに気付く。
どうして。
もう泣くまいと決めていたのに。
呪霊に骨を折られても、非術者を庇って足が千切れかけても、ヘマをして呪詛師から拷問を受けた時でさえ涙は流さなかった。
それなのに・・・

「・・・んなの、夏油さの・・・前だから・・・」
「そうか・・・」

あぁ、ダメだ。
この人の前になると、どうしてこんなに感情が乱されてしまうのか。
あの時のような弱いままじゃなく、少しでも強い自分にならないと。
早く、あの人に手が届かなくなる前にと。
こんな自分ではいけないと、こんな自分を変えるために走ってきたはずなのに・・・

「わた、し・・・何もできなかった。
夏油、ん輩・・・たくさん、助けもらって・・・なに、も・・・返せない」
「・・・」

涙が止まらない
どうして止められないのか、分からない。

「ごめんね」

はっきりとした謝罪。
その声にゆるゆると視線を上げれば、声音と同様に歪んだ表情の傑の姿。
それはが初めて見た、今まで見たことが無い表情では目を見張った。

「傍に居られなくなって」

その言葉に、プツンッと何かが切れた気がした。
かろうじて堪えれたはずの自制が効かない。

「夢でも、謝らないで・・・ください」

は嗚咽を止められず、流れる涙をそのままに、縋るようにもう片手が自身の手を包む大きな手に重ねる。
互いの接点には乾く間もなく雫が次々と落とされていく。
どれほどの時間が経ったのか分からなくなった位に、傑の手がの涙を拭った。

「もう眠った方がいい」
「・・・や」

しかしはゆるゆると首を横に振った。
やっと届いた、でもきっと振りほどかれるだろうその手を今度こそ逃すまいとするように、力が入らない両の手で阻みながら途切れる言葉は続く。

「もう・・・夢でしか、話せな・・・のに」
「大丈夫だよ」
「・・・だ、め・・・」
「大丈夫だから」
「まだ・・・覚めた、な・・・」
「大丈夫」

言い募るの目元は大きな手で覆われ、傑の姿も共に闇へと消える。

「起きたらきっと、楽になるからね」
「・・・げと、さ・・・」


































































































力尽くで眠らせた小柄な体躯に自身の外套をかけた傑は懐からスマホを取り出すと一つの番号へと電話をかけた。
間を置かず相手からの応答が返される。

『夏油、何カアッタカ?』
「やぁミゲル、確か今日は都内だったよね?」
『ソウダガ?』
「悪いんだけどコレから言うものを買ってきてくれないか?」
『買ッテドウスル?』
「呪霊を向かわせるから渡してくれればいいよ」

流れるように相手に伝えられる品々。
当然と受話器の向こうから怪訝声が返された。

『風邪デモヒイタノカ?』
「あぁ、そうなんだよ。手のかかる強情な子がね」
『誰ノ事ダ?』

当然の疑問が返されるも、傑は答えるつもりはなく企み声で笑った。

「ふふ、それは秘密だよ」

通話を切った傑は視線を下げると、濡れた目元を撫でる。
注がれる視線は、誰に気付かれること無くただゆっくりと、呪霊が宵闇に重なる2つの影を運ぶのだった。



































































































アラームのけたたましい音が響き、一気に意識が覚醒した。
彷徨っていた手がスマホに届き騒音はすぐに消える。
現在の時刻を寝ぼけ眼で確認し、寝返りを打てば見覚えのある天井があった。

(「家・・・いつ戻ったんだろ」)

気怠い身体のまま、起き上がることはせず昨夜の記憶を手繰ろうとスマホをチェックする。
すると、昨夜の担当だった補助監督からレスが返ってる他、同期からも病休の了承のレスが返ってきていた。
だが、自身の記憶では呪霊をどうにか退けたところまでしか確かな記憶が無かった。

(「無意識の私ってそんなに優秀だったのかな・・・」)

幻覚、いや、酷い夢を見た気がした。
どうしてこうも弱った時にあの人の夢を見てしまうのか。
学生時代、風邪をこじらせた時に看病してくれたからだろうか。
どちらかと言えば、先輩方や同期を看病した回数は自分のほうがダントツだろうに。
未だに未練がましい自分に嫌気が差したは、深々とため息を吐くとのっそりとした動きで起き上がった。

(「買い物、行かないと・・・確か空だったはずだし」)

面倒だが、何もしなければまたぶり返す。
病休でも休みが伸びれば余計な人がやってくる。
早く熱だけでもどうにかしなければ、とは冷蔵庫を開ける。
すると空だと思っていたそこには、病人食が揃っていた。
白桃、みかん、ミックスゼリー、スポーツドリンク。
その品々は昔日の思い出を刺激するものばかりで、嫌でもあの時の情景が心をよぎった。

「・・・」

まさか、とありえない想像をしてしまったが即座に打ち消した。
そうだ、そんな事はあり得るはずない。

「馬鹿馬鹿しい、病人の時に食べれるのなんてこんなもんなんだし、何を都合の良いことばっか考・・・・・・・・・薬飲んで寝よ」
ーーバダンッ!ーー

誰に対しの言い訳を並べてたのか、頭を冷やすべく夢の未練を断ち切るように、いささか乱暴に冷蔵庫のドアを閉めた。




























































>後日談
 (「あれ、そういえば髪ゴム無い。どこに行ったんだろ・・・」)

ミ「夏油、髪留メ変エタノカ?」
夏「まぁね。看病代かな」





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2023.07.26