ーー季節と想いの交錯ーー
暦の上では春とされても肌に刺さる夜風は未だ厳しく、吐息は白い蒸気へと変わる。
出掛けにねじ込まれた負傷者を捌き終え、待ち合わせの店へと着いた硝子は暖簾をくぐる。
身体を包む温もりに、無意識に詰めていた息を吐き、目的の個室へと入れば出迎えられた光景に表情に渋さが戻った。
「いや、先に飲んでろとは言ったがな・・・」
目の前に広がる惨状。
テーブルの上を埋める空になった大ジョッキ、徳利、グラスが乱雑に置かれている。
その数、ざっと見で20ほどだろうか。
さほど予定していた時間から遅れてはいないが、これだけの数を大した時間を要さず自身でも空けるのはなかなかやらない。
そして、それをしでかした相手、待ち合わせ人に硝子は当然の問いを投げかけた。
「、酔ってるか?」
「酔ってないれす」
「見事なテンプレ回答だな」
ろれつが回っていない応じに半ば呆れたように返した硝子は、コートを畳むと店員へ自分の分の注文を済ませる。
時間を要さず、大ジョッキのビールとお通しが運ばれてくる。
渡された熱いおしぼりで手を拭き終え、冷えたビールを一気に流し込む。
僅かの間に、残りは半分。
大きく息をついた硝子は次のドリンクはどうするかとメニュー眺める。
ついでに目の前でゆらゆらと揺れ焦点が定まらないようなに枝豆をつまみながらさらに問うた。
「そんなに酔いたかったのか?」
「らから、酔ってないれすってば」
「何怒ってんだよ」
適当にあしらいながら、硝子は追加オーダーを加える。
酔ってはいても、雑な扱いが気に入らなかったのかは口を尖らせた。
「んで今日を選んられすか」
「別にたまたまだ」
「嘘ら・・・」
即答の返しに、自力で姿勢を保てなくなったのかはテーブルに突っ伏した。
それを目の前で見ていた硝子は、残ったビールを飲み干すと半ばからかうように問うた。
「なんだ、夏油のこと考えたくなくて酔い潰れたかったってか?」
「・・・そんら人、知らないれす」
「やっと愛想が尽かして嫌いになったか?」
「知らないれすよ、あんらインチキ前髪」
「嫌いとは言わないよな、お前は」
「あんら人、なんて・・・」
ついに酔い潰れたように、の言葉は途切れた。
静かに寝息を立て始めたを前に、追加の料理と酒が運ばれ、空になったグラスが下げられれば、テーブルの上は見晴らしがよくなる。
運ばれてきた熱燗を片手に、一杯目を飲み干した硝子は小さく息を吐くと僅かに苛立った声を上げた。
「だとさ。どう思うよ『インチキ前髪』クズ野郎」
「酷い言い草だな」
暴言に応じるように新たに現れた男はの隣、硝子の前へと腰を下ろした。
こうしてきちんと相対するのはあの喫煙所で会話して以来。
互いに歳を重ねたことが分かる容姿、共に高専で同じ年月を過ごした同級生でもあり、そして今では互いに対極の立場に立つ者同士。
呪術師と敵対している特級呪詛師、夏油傑は最後に会ったときのようにラフな格好で気軽な調子で挨拶を返した。
「元気そうだね」
「お前のおかげで余計な仕事が増えてるよ」
「それはすまないね」
硝子のトゲある言葉に謝罪は返るも、気を病んでいる様子はなく傑は以前のように軽く応じるだけで留める。
そして、熱燗が入った徳利を手に空になった硝子のお猪口へと次を注いだ。
「今日は悟は来ないのかい?」
「来ないこと分かってたから来たんだろうが、白々しいこと聞くな」
「はは、硝子には敵わないな」
「・・・ん」
分かりきったことの応酬に苛立ちを返した硝子に傑はすぐに諸手を挙げて降参を示す。
と、隣で身じろいだを目にした傑は置かれた上着かけてやった。
それを目の前で見ていた硝子は眇めた視線を返す。
「ストーカーか?クズだな」
「まさか、本当にたまたまだよ」
「ったく、とサシ飲みが何でクズ相手になるんだかな」
「初めて見たよ。こんな風になるだね」
「こっちのセリフだ」
「え?」
「大概、潰される前に逃げるからな。
自分の限界把握して、自力で帰れるタイミングで止めるやつだ」
傑から徳利を奪った硝子は手酌で自身のお猪口に熱燗を注ぐと、すぐに流し込んだ。
驚きを見せる傑に、原因主を非難するように硝子は淡々と続けた。
「今日は誰かさんの所為で見誤ったんだろ」
「それはまた、酷い奴がいたものだね」
「明日どうなるか見ものだな」
僅かに含み笑いを浮かべた硝子は、を見下ろしさらに杯を重ねた。
互いに無言が続く中、店内の喧騒だけが静かに通り過ぎていく。
しばらく口を噤んでいた傑だったが、隣で動かないを見下ろし小さく呟いた。
「一緒に忘れてしまえば楽だろうにね」
「そうできなくした呪いをかけたのはお前だろ」
間髪入れず、言い捨てた硝子に傑は初めて困ったように笑い返した。
「否定できないな」
「未練がましい奴」
「すまない」
「言う相手が違え」
けっ、と吐き捨てた硝子は店員を呼び追加のオーダーを加える。
すぐに熱燗二本が運ばれ、再び硝子は手酌で飲み進める。
雑談に応じるつもりがない硝子の前で、傑は隣を見下ろしながら再び口を開いた。
「敵対してるのに、この子が思い悩んでくれることを嬉しく思ってしまうほど歪んでる自覚はあっても、攫う勇気は出ないんだよね」
「目の前でやれば五条呼ぶけどな」
「はは、なら硝子が見ていないところでやらないといけないか」
軽口をたたく傑は、に掛けたコートが下がったことに気付き改めて引き上げる。
その仕草も、注がれる視線も高専上層部が下した非道な特級呪詛師などとは思えない、とても柔らかいもの。
そんなものを目の前で見せられたからか、硝子は思わず口をついた。
「あの日以来、こいつは変わったよ」
硝子から話題が振られると思わなかった傑は思わず視線を向かいに返した。
新たにお猪口に熱燗を注いだ硝子は揺れる透明な輪郭を少しの間だけ見下ろすと、一息に空け続ける。
「良く言えば社交的になった」
「悪く言えば?」
「どっかのインチキ前髪みたいに笑顔で本音を隠すわ、負傷は前より隠すようになるわで手間が増えて見つけるたびに剥いてるよ」
「・・・それは大変だね」
再び、傑は苦笑を見せる。
それはひどく歪な笑みで、それは今まで見たことがない笑みで、その笑みを向ける話題の中心人物は決まっていて。
胸がひどくざわめいた。
だからなのか、新たな酒を注ぐことなく確認しなければならない問いをかつての同級生に向けた。
「夏油」
「ん?」
「お前、こいつの事どうするつもりだ?」
「そうだな・・・」
硝子の問いに傑はしばらく考え込む。
その視線は隣に向けられ、その手が伸び顔に落ちた髪を耳にかけてやるとやっと返答が返された。
「今はまだ、答えを出せないかな」
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2023.10.15